創業85周年特別企画 決断と挑戦の歴史-ハンガリー拠点設立の軌跡-

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2023年、武蔵精密工業株式会社(以下、ムサシ)は創業85周年を迎えました。
第2次世界大戦から戦後の高度経済成長に代表される激動の昭和、リーマンショックや東日本大震災に見舞われた平成、そしてコロナ禍を経験した令和。たくさんのピンチに見舞われた85年の歴史で変わらず受け継がれ、ムサシの発展を支えてきたのは、時代の変化の中でたびたび行ってきた “決断と挑戦”です。

今回、常務執行役員(最高品質責任者)の堀部浩司にインタビュー。85年の歴史の中でも大きな挑戦の1つであるMusashi Hungary Manufacturing, Ltd.拠点(ハンガリー エルチ 以下MHM)設立当時についてうかがいました。MHMは現在、社員数200名、重要保安部品であるリンケージ&サスペンションなどの製造拠点となっています。創業当時の困難にどう立ち向かったのか、堀部の挑戦をご覧ください。


【プロフィール】 
堀部浩司(ほりべ こうじ)
1983年ムサシに新卒入社。その後製造部門、工機部門での実習を経て技術部に所属し、カムシャフトの工程設計などを担当。1998年からはイギリスに駐在し、2000年からはハンガリー拠点Musashi Hungary Manufacturing, Ltd.の立ち上げに従事。リーマンショック後の2009年には2度目のハンガリー赴任でMAP-UK(イギリス拠点)の工場閉鎖、MHMへの事業移管を遂行。現在は常務執行役員(最高品質責任者)として、コア事業の品質保証全般を統括している。

早くから感じていた危機感

私がムサシに入社したのは1983年です。大学のゼミの教授が、2代目社長の大塚公歳と知り合いだったため、そのご縁で入社しました。今年で入社40年。長い年月が経ちましたね。
入社当時から海外で働きたいとの希望を持っていました。それが叶ったのは1998年。技術系の仕事に従事したのち、現社長の大塚浩史が立ち上げたイギリス拠点(TAP-MF)に38歳で駐在しました。

ムサシは80年代以降、アメリカ・タイ・イギリスと海外拠点を次々に設立していきましたが、それらは既存顧客のニーズに基づいて、尚且つサポートを受けながらの設立でした。その中で特に欧州事業に対し危機感を感じていたのは、当時、イギリス拠点(TAP-MF)の社長だった大塚浩史(現:最高経営責任者)です。ムサシの発展のためにはグローバル規模での営業活動を推進する必要があると説いていたのを覚えています。

こうしてムサシは欧州での営業活動強化を決断したわけですが、イギリスに拠点を置きながら、Audi社、Daimler社、Fiat社などの大陸側の完成車メーカーとビジネスをするのは、地理的・経済的・歴史的な壁がありました。ならばいっそ大陸に進出しようという決断のもと、 旧ソビエトの共産圏が崩壊して、西側の資本を入れるのに積極的だった東欧諸国の中から、ハンガリーが選ばれたのです。
これらの決断を経てMHM設立が決定したのでした。1999年のことでした。

ひまわり畑から始めた工場建設

2000年のある日、浩史社長に連れられて、ハンガリー・エルチの工業用団地に向かいました。「ここに工場を建てるから」といきなり言われたのを覚えています。到着して目に飛び込んできたのは、工業用団地とは名ばかりの、一面のひまわり畑。とてもきれいでした。
ひまわりと工場。あまりにかけ離れた2つの事柄に一瞬訳が分かりませんでした。
最初は途方に暮れそうになりましたが、そうは言っても、ムサシのこれからのためにやり遂げるしかない!と熱くなりました。

2001 年からはハンガリーに移住し 、文字通りイチから工場建設に取り組みました。工場建設や会社の登記など、やることは多々あったのですが、何からどう始めて良いのかはさっぱり。当時の私はずっと技術一本で仕事をしてきたので、無理もなかったと思います。日本の本社に相談しても、あまりに前例のない挑戦のため、あまり有益なアドバイスはもらえませんでした。

そこで力を入れたのは、現地での人脈造りです。既にハンガリーに拠点を構えていた日系企業には迷惑になるくらい足しげく通って、会社設立に必要な手続き方法を教えてもらいましたし、工場が出来る前は会議室を間借りして事務所として使わせていただいていたことも。

そのおかげで「わからない」と途方に暮れるのではなく、先ず行動してそこから考えることが出来るようになったことはよかったなと思います。人脈を作りすぎた結果、日本人会の商工会で会長をさせていただいたり、首都ブタペスト初となる日本人学校設立に奔走し、学校の初代理事を務めたり(妻は初代PTA会長でした)…工場設立以外の思い出や苦労も、語りだすとキリがありませんね(笑)

枠を壊した人材登用

新しい挑戦のための拠点らしく、人材採用も枠を壊した挑戦を行いました。
浩史社長に連れられて向かったホテルのロビーで「彼にMHMの社長を任せるので、堀部さんは副社長をお願いします」と紹介されたのは、イタリア人のジョバンニさん。ムサシの拠点史上初、海外出身の社長が生まれた瞬間でした。ヨーロッパの自動車業界に詳しい人間をリーダーにすべきとの浩史社長の判断でしたが、当時はまだダイバーシティという言葉も普及していない時代です。革新的な判断だったなと思います(心の中では「何と無謀な」と思っていましたが・・)。

私のマネジメントスキルのイロハは、ジョバンニさんに教えてもらったと言っても過言ではありません。現地の社員とのかかわり方に悩む私に、「仕事してくれるのは彼らなのだから、親みたいな気持ちで彼らのことを愛して信じなさい」とアドバイスをくれたのを鮮明に覚えています。MHMの社員を愛し、その後に駐在したインドではインドの社員を愛し、今はムサシで働くすべての人を愛しています。

拠点立ち上げを終えて

一連の業務では辛いことがたくさんありました。その分、工場が建ったとき、はじめて製品を製造し出荷したとき、黒字化したとき、本当に嬉しかったのを覚えています。
MHMはその後、ムサシが独自開発した、Audi社向けのアルミアームや、ダイムラー・クライスラー社およびFiat社向けのカムシャフトなど、欧州の自動車産業を支える大切な生産拠点として成長しました。

MHMの設立から20年以上の月日が経ち、今は遠く日本から、MHMの活躍を見守っています。今の楽しみは2025年に予定しているタイムカプセルの開封式です。MHMで初めて製造した製品やワインと共に当時の写真やメッセージが工場エントランスの壁の中に収められています。

100年に一度の大変革期を迎えて

20年以上たった今思うのは、そのつらい経験全てが自分の財産になっているということです。
例えばジョバンニさんに教えてもらったマネジメントノウハウは現在まで私の中で生きていますし、社内で前例のない仕事に取り組むという経験も、自分の糧になったと思っています。

ムサシは当時も今も、常識や固定概念にとらわれない革新的な経営を推し進めており、自分の糧となる大きな挑戦をできる機会がたくさんあります。機会はたくさんありますがそれが自分の糧になったかどうかは結果であり、後から振り返ってわかることです。一つだけ言えることはチャレンジしなければ何も得られないということです。

自動車業界は今、100年に一度の大変革期を迎え、サプライチェーンも生き残りをかけた勝負の時を迎えています。100年間失敗知らずの日系自動車産業にとっては大きなピンチとも言えるでしょう。しかし、ムサシは1938年の創業以来、常に未来への危機感を持ち、決断と挑戦によって成長してきました。それはMHM設立をはじめとした歴史が証明しています。今回訪れた100年に一度のピンチも、100年に一度の大きなチャンスに変えていけると信じています。そして、MHMで働く私の後輩たちもその挑戦の一翼を担ってくれると嬉しいなと思っています。



▼ムサシのコーポレートサイトでは、創業以来80年の歴史をまとめた80周年史をご覧いただけます。
https://www.musashi.co.jp/assets/pdf/80th_year_history.pdf

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